東京都千代田区の歴史
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明暦三年(1657)一月十八日の江戸大火は、俗に本郷の振袖家事と呼ばれています。この大火では、江戸城のうち西丸を除いた天守閣・本丸御殿などを焼き尽くしました。その後、天守閣は再建されていません。資料によって差がありますが、城下でも大名屋敷が160軒、旗本以下の屋敷が770軒余、町屋が1200町にわたって焼失し、死者も十万人を数えたといわれています。 PR 所在地 千代田区岩本町3-10先(区立岩本町馬の水飲み公園) この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を引く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場として、重要な役割を果たしてきました。 千代田区区役所 江戸幕府が開かれた慶長年間(1595~1615)になると、神田川の工事が行われ川の南側に土手が築かれました。特に、駿河台東端から浅草橋までの土手は、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えた逸話もあり、また8代将軍徳川吉宗の時に再び柳を植えたことから「柳原土手」と呼ばれました。 この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまでは大名・旗本らが居住する武家地や火除明地や籾蔵の設置場所などでした。その後、次第に商人や職人が住む町地となり、土手のそばには古着などを扱う簡素な露店が設けられ、江戸市中の古着マーケットの一つとなりました。 明治6年(1873)になると土手は崩されますが、古着を扱う露店は引き続いて営業しました。さらに、明治14年(1881)には、現在の岩本町3丁目10番地及び神田岩本町1番地の一帯に、東京市内の古着商業者たちによって「岩本町古着市場」が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。 大正12年(1923)9月の関東大震災では、この地区も甚大な被害を受けます。そして、震災復興の区画整理により、それまで営業していた露店は取り払われました。また、第一次世界大戦後になると、庶民の日常衣類として洋服が急速に普及し、需要の中心も古着から洋服に、特に廉価な既製服へと代りました。そのため、この地区でも和服に代わり既製服を扱う店舗が増加し、「洋服」の町へと変貌していきました。 戦時下には統制経済の影響も受けますが、戦後、特に昭和30年代になると東京の衣料業界も復興を遂げ、また技術革新も進み、この地区は洋服の一大生産地となり、全国のデパート専門店などのウインドーを彩どるファッションの発信地となりました。 平成11年(1999)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区岩本町2-1-5 金山神社御由緒 祭神 金山彦命 金山姫命 祭典日 1月8日新年祭 5月8日春祭 11月8日例大祭(鞴祭) 古典によればニ柱の御祭神は伊勢に鎮座される 天照大神の御兄姉神にあたらせられ、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司られる祖神と仰がれ給い御神徳は洵に宏大無辺にして、剣の神感からは破魔除災の神として、亦金宝の霊感を以って厚く金運招福の神と崇敬されてきた大神様にあらせられます 我が金属業界の遠い祖先等は、この高き御神徳を敬仰して、總本宮にまします岐阜県不破郡鎮座の元国幣大社南宮大社より御分霊を奉遷して、各地に金山神社を創建奉祀して来た処、東京金物同業組合に於いても昭和年代の初頭より御分霊を組合事務所に奉斎して厚く崇敬の誠を捧げて来ました。併し第二次大戦の災禍に遇って祭祀中絶の止むなき仕儀と成りましたが、崇敬心聊かも変ること無く平和の世を迎えるに及んで、直ちに業界挙げて神社創建の計画を興し、広く奉賛会を結成して由かり深いこの地を鎮座地に選び定め、昭和27年(1952)秋10月新たに總本宮より御分霊を奉迎して假殿に奉安申し、社殿造営工事は着着と進められ、ニヶ年に及ぶ歳月をかけて目出度く本殿以下現社殿の諸工事を竣工致しました。昭和29年(1954)11月8日、由緒深い鞴祭の吉日をトして御鎮座奉祝の大祭を盛大に斉行なし、以来宗教法人の神社として年々の祭儀を厳粛に奉仕して今日に至りました 茲に御鎮座30周年の意義深き年を迎えるに当り帝都中枢の地に重鎮される金山神社の御神徳愈々御栄えまし、敬い奉る業界の末永き和協協栄をひたすら祈念して、謹みて御由緒記を建立いたす次第であります 昭和57年(1982)11月8日 金山神社崇敬会
所在地 千代田区岩本町2-5 (繁栄お玉稲荷神社) 東京都指定文化財 旧跡 お玉が池 昭和30年(1955)3月28日指定 この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、徐々に埋め立てられ姿を消したといいます。最初、桜が池と呼ばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたとの古事から、お玉が池と呼ばれるようになったといいます。 近所には、お玉ヶ池のレリーフ・石碑・説明板があります。 お玉ヶ池種痘所記念レリーフ (千代田区岩本町2-5-9 パステルコート神田岩本町) お玉ヶ池種痘所跡 (千代田区岩本町2-7-11 加島ビル) お玉ヶ池跡碑 (千代田区岩本町2-6-3 全宅連会館) お玉ヶ池湖畔 玄武館道場跡レリーフ (千代田区岩本町2-3-11 明治鋼業ビル) お玉ヶ池説明板 (お玉が池児童遊園) 所在地 千代田区岩本町2-5-9 (パステルコート神田岩本町) お玉ヶ池種痘所記念レリーフ いまから百十年まえ 1858年・安政5年5月7日このちかくにお玉ヶ池種痘所ができました それが発展していまの東京大学医学部になりました すぐそこにある記念碑はそのゆかりですえられたのです 1968年・昭和43年5月7日 東京大学名誉教授 緒方富雄
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