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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区西神田1-1-12

 江戸幕府、明治維新後の明治政府は、いずれもキリスト教を厳しく禁じました。明治6年(1873)2月24日に禁教の高札を撤去してから、次第に取締りを緩和しました。
 しかし、パリ外国宣教会の司祭たちは、巧みに宣教活動を開始しており、明治5年(1872)には三番町に外国語を教授する名目で「ラテン学校」を作り、英語・フランス語・ドイツ語の他、ラテン語を教えました。ラテン学校は、開校以来学生の数が増えましたので、明治7年(1874)1月に三つの旗本屋敷(約3,000坪)をフランス公使ベルトミー氏の斡旋により入手し、神田の猿楽町に移転しました。そして、その新しい場所において聖フランシスコ・ザビエルを保護の聖人とする聖堂を持ちました。この聖堂は、禁教の高札が撤去されてから最初に建てられた。これが神田教会の発祥です。
 この聖堂に続いて、それまで
外国人居留地の中にあり稲荷橋のたもとにあった商家を仮聖堂としていた築地教会外国人居留地を出て、現在の明石町に移転し、明治7年(1874)11月に聖ヨゼフに捧げられた教会として献堂ミサを行いました。このように神田教会と築地教会はほぼ時を同じくして創設されたのです。
 明治14年(1881)にはシャルトルの聖パウロ修道女会が、この神田教会の敷地内に招聘され後年白百合学園となる学校事業(施寮院・孤児院・小学校)を開きました。また明治21年(1888)1月には、ヘンリック師を長とする5名のマリア会員が神田協会に居住し、日本語の学習を始め、同時に塾を開き教育修道会としての活動を開始しました。これが後の暁星学園です。両校ともミッションスクールとして今日に至ります。

 国指定文化財(建造物)
カトリック神田教会聖堂
          平成14年2月14日指定

 昭和3年(1928)竣工で、マックス・ヒンデルが設計し、鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC)、2階建の協会建築です。バシリカ形式の三廊式聖堂で、半円アーチを基調とした開口部、ロンバルド帯風の軒蛇腹、四葉をモチーフとした胴蛇腹が外観を飾る。内側は、半円アーチのヴォールト天井と玄関脇に集会所を設ける平面を特徴としています。

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所在地 千代田区西神田2-6-2 (西神田コスモス館)

  西神田小学校・幼稚園祈念碑

 西神田小学校は、明治36年(1903)地元住民の絶大なる協力のもと東京市西小川尋常小学校として、この地に設立された。翌明治37年(1904)、修業年数2年の高等科が併置され西小川尋常高等小学校と改称した。明治39年(1906)には尋常夜学校が併設された。昭和18年(1943)まで続けられ、修了生は1459名を数えた。昭和2年(1927)西神田尋常小学校と変更、さらの昭和16年(1941)西神田国民学校、昭和22年(1947)千代田区立西神田小学校と校名変更を重ねた。また、昭和21年には西神田幼稚園が併設された。特に、統計教育、放送教育、社会科教育においては全国・全都の学校の指導的役割を果たした。
 開校以来児童数は増加を続け、関東大震災直前の大正11年(1922)には1437名を数えたが、以後徐々に減少し続け再びこの人数を回復することはなかった。
 平成4年(1992)創立90周年を迎えたが、千代田区公共施設適正配置構想のもと、翌平成5年(1993)3月西神田小学校・西神田幼稚園の長い歴史に幕を下ろし、同平成5年(1993)4月、西神田区立お茶の水小学校として再出発をした。
 明治、大正、昭和、平成と4代にわたる激動の時代を生き抜き、10896名に及ぶ児童、2470名に及ぶ園児の健全な育成に携わるとともに、地域発展のため常に精神的な拠り所として、その役割を果たしてきた西神田小学校・同幼稚園の栄光を、永久に記念するためにこの碑を建立するものである。

 


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