東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区一番町 この坂を永井坂(ながいざか)といいます。坂下一帯は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。 嘉永4年(1851)の「東都番町大絵図とうとばんちょうおおえず」という切絵図を見ますと永井勘九郎ながいかんくろう・永井奥之助ながいおくのすけという旗本が道をはさんで、ちょうど向かいあっているかのようにみえます。 PR 所在地 千代田区一番町 この坂を袖摺坂(そですりざか)といいます。むかし、この坂道は行きあう人の袖と袖がふれあうほどせまいのでその名がついたといわれます。幅のせまい道をこのように名付けた坂は他にも見られます。 平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区一番町6 都旧跡 滝廉太郎居住地跡 滝廉太郎は、この交差点から西に100m程の所(一番町6-4・ライオンズマンション一番町第二)に、明治27年(1894)ごろから明治34年(1901)4月まで居住していました。今日でも愛唱されています名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。 滝廉太郎は明治12年(1879)東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、明治27年(1894)東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。優秀な成績で卒業した後は、母校の助教授として後進の指導にあたりました。 明治34年(1901)、文部省の留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽学校に学びました。しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、明治36年(1903)6月29日死去しました。日本の芸術歌曲の創始者ともいわれています。 滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを偲び、毎年9月下旬には地元町会の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。 平成17年(2005)8月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区一番町1 (イギリス大使館前) 明治31年(1898)、ときの英国大使アーネスト・サトウ氏(明治28年~33年在任)が英国大使館前の空地に桜の木を植え、東京府に寄付しました。 のちに、それが見事な桜並木となり多くの人々に親しまれましたが、戦災等で枯木となったため戦後再びこのあたりに桜の木が植えられました。 以後、新たな桜並木の名所として生まれ変わり人々に愛され続けています。 平成9年(1997)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区一番町4 三番町 この坂の名前は、五味坂といいます。「ごみ」という名前から「芥坂(ごみざか)」や「埃坂(ごみざか)」の字をあてたり、その意味から「ハキダメ坂」と呼んだり、さらに近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」・「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれたといいます。 『麹町区史』には、「由来は詳らかでないが、光感寺が元とすれば、甲賀は光感の転化らしく、ごみは埃ではなく五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。つまり、坂の辺りは「五番町」で坂を登ると「上二番町」なので、二つの町を結ぶ坂として「五二坂」と名前がつき、「五味坂」に変わったのではないかということです。ちなみに、昭和13年(1938)に実施された区画整理の結果、「五番町」と「上二番町」は現在では「一番町」に含まれています。 所在地 千代田区一番町 この坂を南法眼坂といいます。この坂の北に法眼坂があるためにその名が付けられたのでしょう。坂の下は3丁目谷と呼ばれています。 法眼の名は、『紫の一本』に”斎藤法眼という人の屋敷、この坂のきわにあり”とかかれています。法眼とは僧の階級の1つであり、また江戸時代、医師、絵師、連歌師などに授けた称号のことです。 平成7年(1995)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区一番町1(千鳥ヶ淵公園) 千代田区歌 並ぶ官庁広場濠 帝の宮居とりめぐり わが千代田区に誉あり 大東京の中心地 江戸の名残も風情にて こゝを都の都ぞと 澄めり千代田の城の月 オフィスセンタアテレビ塔 世界の文化ひしめきて わが千代田区に栄あり 新日本の心臓部 国の要と他も見む こゝを都の都ぞと 住めり千代田の区民われ 佐藤春夫 作詞 所在地 千代田区一番町20 川喜田半泥子旧居跡 実業家・川喜田半泥子(1878~1963)は陶芸、書、俳句、絵画、茶道などの文化人としても名を残した。東京の拠点として昭和12年(1937)から数年間ここに住んだ。 Kawakita(1878-1963)was a successful businessman and supporter of the arts.He was a connoisseur of ceraics,calligraphy,and the tea ceremony,as well as haiku poetry.For several years after 1937 he made this his base for activities in Tokyo. |
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永山
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