東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区有楽町2-2-3先 明治法律学校(現明治大学)は、明治十四年(1881)一月十七日に旧肥前島原藩主松平氏の上屋敷であったこの地に開校した。創立者の岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の三人は、貢進生として鳥取藩、天童藩、鯖江藩を代表して大学南校に遊学し、つづいて明法寮でボアソナードにフランス法を学んだ。その後フランスに留学し、とくに『権利自由、独立自治』の精神の普及をめざして本学を設立した。当時彼らはいずれも30歳に満たぬ白面の書生であった。 PR 所在地 千代田区大手町2-7 (常盤橋公園) ここに立たせるは護王大明神の神號を給はりし贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまをうつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に孝明天皇の室命に身の危きを顧ず雄々しく烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた明治天皇の策命に日月と共に照り徹れつ偉き勲をめでさせたまへりこれの像は明治の出御代に祝行添うせしを今茲紀元二千六百年の記念として宮城の御濠に沼へる地に建設せるなり 公の英霊は千載生けるが如く嚴然として宮闕の下を離れず我が國體を擁護しまつり天地と倶にごとしへに存せむ 所在地 千代田区丸の内2-1-1 国指定重要文化財 所在地 千代田区皇居外苑1 楠正成像 Statue of kusunoki Masashige 明治三十年一月 従五位臣住友吉左衛門謹識 所在地 千代田区一ツ橋1-1先 江戸城築城550年に当たって 【碑文】 この木は、震災イチョウ(震災銀杏・震災いちょう)と呼ばれています。樹齢150年を超えると思われるこのイチョウは、かつて文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル・住友商事竹橋ビル・一橋総合ビル一帯)にありました。大正12年(1923)9月の関東大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒されることになった際、当時の中央気象台長岡田武松氏がこれを惜しみ、なんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。 この橋を万世橋といいます。はじめはこの場所には橋がなく、約150m上流に筋違橋門に附属する橋がありました。明治5年(1872)に門が解体されとき、不要となった枡形石垣を転用して、門の跡に東京最初の石橋が架けられ、時の東京府知事大久保一翁により万世橋と命名されました。しかし一般には、半円形の二つの通船路の川面に映るさまが目鏡のようなので、目鏡橋の愛称で呼ばれました。
所在地 千代田区千代田1-1 (皇居東御苑)
明暦三年(1657)一月十八日の江戸大火は、俗に本郷の振袖家事と呼ばれています。この大火では、江戸城のうち西丸を除いた天守閣・本丸御殿などを焼き尽くしました。その後、天守閣は再建されていません。資料によって差がありますが、城下でも大名屋敷が160軒、旗本以下の屋敷が770軒余、町屋が1200町にわたって焼失し、死者も十万人を数えたといわれています。 所在地 千代田区大手町1-2 平安時代、天慶の乱(~940年)の中心人物、平将門にまつわる著名な伝説地。 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして、関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望をを受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には『将門塚例祭』が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田際の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。 将門首塚の由来
将門首塚の碑(故跡保存碑) 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆(せきとうば)は徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。 昌平橋(しょうへいばし)の架設はきわめて古く、寛永年間(1624~1644)と伝えられています。この橋は、一口橋(いもあらいばし)(芋洗橋)、相生橋などと呼ばれたこともあります。 所在地 千代田区霞が関1-1-1 重要文化財(平成6年12月27日指定) この建物は、明治政府が招聘したドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により、実施設計・工事監理には河合浩蔵が参画し、1895年(明治28年)に旧司法省庁舎として完成した。 その後、1923年(大正12年)の関東大震災では、レンガ壁が鋼材で補強されていたため、ほとんど被害を受けなかったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲により、レンガ壁を残して焼失した。そのため、屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事が行われ、1950年(昭和25年)法務省本館として再び利用されるようになった。 中央合同庁舎第6号館の整備に伴い、村松貞次郎、堀内正昭両氏の監修のもと建設大臣官房官庁営繕部により、1994年(平成6年)外観が創建時の姿に復原され、法務総合研究所及び法務図書館として活用されることとなった。 本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で歴史的価値が高いため、1994年(平成6年)12月27日に重要文化財の指定を受けた。 平成7年5月
明治政府は産業奨励のため、この地麹町区内山下町一丁目一番地(現千代田区内幸町)に農産陳列所のうさんちんれつしょを設置した。
所在地 千代田区皇居外苑1
常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門である。また天正十八年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸一の大橋であった。現在の石橋は門跡の石等も使い、明治十年に改架したもので、洋式石橋の創始といわれている。この常盤橋の名称は、家光の時代 『 色かへぬ 松によそへて あづま路の 常盤の橋に かかる藤なみ 』 の歌に因みつけられたものといわれる。 所在地 千代田区千代田
所在地 千代田区鍛冶町1・2丁目
今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~1683)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたものでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。
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