東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 この坂を淡路坂(あわじざか)といいます。この坂には、相生坂(あいおいざか) 大坂(おおさか) 一口坂(いもあらいざか)などの名称がつけられています。この坂の上に太田姫稲荷(おおたひめいなり)、道をはさんで鈴木淡路守(すずきあわじのかみ)の屋敷があり、それにもとづき町名、坂名がついたといわれます。 PR
所在地 千代田区神田駿河台1・3・4丁目
この坂を池田坂といいます。名称の由来は、この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためといいます。『新撰東京名所図解』には「池田坂は、北甲賀町の中央にあり、駿河台より小川町に通ずる坂路なり、其昔坂の際に、池田氏の邸宅がありしより以て名とす、」名を唐犬坂といふとぞ。『新編江戸志』には、「池田坂 唐犬坂とありて、むかし池田市之丞殿屋舗に唐犬ありし故、坂名とすと見えたり。」とかかれています。
明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年(1880)に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に日比谷大神宮と称されていました。関東大震災後(1923)の昭和3年(1991)に現在地に移ってからは飯田橋大神宮と呼ばれ、戦後は社名を東京大神宮と改め今日に至っております。 「東京のお伊勢さま」と称えられ親しまれているのは伊勢両宮(内宮 外宮)のご祭神である天照皇大神(日本国民全ての祖神)と豊受大神(農業 諸産業の守護神)のご分霊を奉斎していることによります。 また、日本で最初の神前結婚式を執り行ったことで有名な当社では、現在も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る「造化の三神」が併せ祀られていることから近年縁結びに御利益のある神社としても知られ良縁を願う人々のご参拝も年々多くなっています。
御祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 豊受大神(とようけのおおかみ) < 造化の三神 > ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) ・高御産巣日神(たかみむすびのかみ) ・神産巣日神(かみむすびのかみ)
倭此賣命(天照皇大神の御杖代 第十一代垂仁天皇皇女)
御鎮座 明治13年(1880)4月17日 明治初年日比谷大神宮御鎮座に際しその境内に奉斎され昭和3年(1928)10月にこの地に奉遷今日に至っております。 衣食住と商売繁昌の守護神「稲荷大神(いなりのおおかみ)」と土地の守護神「大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)」を祀っています。 主な祭典として毎年2月の午の日に初午祭が8月15日には夏の大祭が斎行されます。 また不出世の名優と謳われた9代目市川団十郎丈が篤い信仰を寄せていたことから芸能の神様としても崇敬されております。 所在地 千代田区西神田1-1-12 江戸幕府、明治維新後の明治政府は、いずれもキリスト教を厳しく禁じました。明治6年(1873)2月24日に禁教の高札を撤去してから、次第に取締りを緩和しました。 大正12年(1923)関東大震災の直後、氏は選ばれて帝都復興院土木局長に任ぜられ、復興事業の根幹で然も極めて難事業であった区画整理、およびこれに基く土木工事の計画遂行に直面して、献身的努力をなすこと二年余、事業の基礎漸く成った大正15年(1926)春、心身疲労の極、事業の犠牲として、惜しくもその生命を絶ったのであります。 昭和6年(1931)復興事業の完成に当り、先輩知友相寄り、氏の功績を偲び記念としてこの彫像を、深川相生橋畔の中島公園に建立したのでありますが、太平洋戦争の災禍により損傷せられましたので、昭和30年(1955)春それを修復の上、この地に移設したのであります。 昭和30年(1955)6月 所在地 千代田区飯田橋3-5 昭和60年(1985)11月吉日 建立 日本大學 國學院大學 周恩来ここに学ぶ-東亜高等予備学校跡- 日中両国の人々が敬愛する周恩来総理は、1898年3月5日江蘇省淮安に生まれました。周総理は1917年(大正6年)に19歳で日本に留学。この地(当時はかんだ区中猿楽町)にあった東亜高等予備学校(創立者・初代校長=松本亀次郎)で日本語を学び、大学進学の指導を受けました。そのころ、日本政府の対中国政策に反対した松本亀次郎校長の心請にも影響を受け、1919年(大正8年)には帰国して天津の南関大学に学び、新中国の建設に身を投じました。
所在地 千代田区神田駿河台1-1,3
所在地 千代田区神田駿河台4~文京区 所在地 千代田区鍛冶町1-8 このお稲荷さんは何時頃から此の地に祭られたか記録がないのでさだかではありません。 所在地 千代田区有楽町1-7 (有楽町電気ビルヂング先) 社の傍にある手洗鉢は萬延元庚申年八月に、駒野四郎兵衛藤原里知、佐竹源治源義道、千葉脩二平宗克、土屋多藏源昌大、小川岩藏源富行、谷本重藤原長徳、井口岩五郎平貞正、清水量藏藤原吉利の八名が奉納した銘があり、当時から非常に信仰が篤かったことが偲ばれます。 明治維新後は町制の変革によって稲荷神社もわずかにその跡形を止めるばかりでしたが、明治41年(1908)東京市電気局有楽町変電所が設けられたとき、祠堂も改修して町内氏子と共にお祠りして来ました。 大正12年(1923)9月1日の関東大震災の際にも周囲はみな延焼したにも拘らず、独り当地は災害を免れました。 昭和8年(1933)1月変電所の復興を機会に盛大な鎮座祭を行なって以来、毎年2月初午には大祭を執り行っております。 昭和48年(1973)9月、有楽町電気ビルの新築に伴い一時、赤坂山王町日枝神社に遷座されましたが、昭和54年(1979)2月、再びこの地に復座いたしました。 ここに、この由緒の概略を述べ伝える所以であります。 昭和54年(1979)2月
所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 所在地 千代田区麹町6丁目~新宿区 (橋下 JR中央線) 四谷見附は、山口藩毛利秀就が普請を命じられ、寛永16年(1639)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年(1872)に撤去され、現在は石垣がのこるだけである。 当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から城門を経て出入りする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は、外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城郭に入る。 明治以降、このような喰い違い構造が交通に障害となったため、明治44年(1911)四谷見附橋建設が着工され、大正2年(1913)に完成した。現在の橋は、平成3年(1991)に架け替えたものである。
所在地 千代田区麹町6-4-2 常栄山心法寺は、浄土宗の寺院で、現在の千代田区内では墓域を有する唯一の寺院です。もともと心法寺は、推古天皇頃三河国に開かれた寺院で当時の寺号は「秦宝寺」とされていたといわれています。その後、慶長2年(1597)江戸麹町の地に二千余坪の寺地を受けて改めて心法寺を起立しました。 この心法寺に伝えられる本尊「木造阿弥陀如来坐像」は、像高109.0cm(三尺五寸九分)、ヒノキ材寄木造りで漆箔を施し、おおむね12世紀最末から13世紀第14世紀頃までの製作と考えることができます。すなわち本像の像容・面貌は平安時代後期、11世紀に仏師定朝が完成した定朝式に基本的にしたがうもので、寄木造りの手法にも、その時期の特色をしめしていますが、胸腹部など厚く量感をもった体躯などには、鎌倉時代初頭に成立した新様式の影響がうかがわれます。この点からすれば、本像は鎌倉時代にはいってからの製作と考えるのが自然でしょう。ただし後頭部、左腕の一部と右腕の全部など補修部分が多く、製作当初の像容をかなり損ねており、従って製作年代の確定を困難にしている点も否めません。しかし平安時代後期彫刻の面影をのこす鎌倉時代初期の、等身大をうわまわる大きさの像が都心の寺院に遺存することは、貴重な事例です。 心法寺には、「紙本着色 仏涅槃図」も伝わっています。本件は、娑羅双樹の下で釈迦が入滅する姿を描いた仏画です。中央の釈迦には箔が貼られ、肉身は黒、衣服の線は朱筆で入れられています。画面は、縦182.7cm、横158.4cm。本図の画面上部の構成は、仏画の典型に従っており、類型的に描かれています。これに対し、画面最下段の部分には、多くの鳥獣が凝縮して描かれています。これら動物は釈迦の入滅に際して泣き、嘆き悲しむ姿で描かれるのが普通ですが、本図ではほとんどの動物が嘆き悲しまず冷静な姿で、いわば写実的、博物学的に描かれています。そしてこのような博物学的な写生図の気運が高まるのは、一般に享保時代以降とされています。また図中には、「伯喬図」との落款があります。この伯喬については、『武江年表』元文元年(1736)8月の記事に「品川(北番場)大竜寺に、呉道子の筆南海補蛇山鎮海寺立石観世音像を写して碑を立つる(素人斎伯喬之を写す、加藤氏造立)」とあります。以上のことから本図は、享保・元文年間(1716~1741)頃に作製された作品であると思われます。 所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺) 所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺) この水盤は、銘文によれば、万延2年(1861)2月に檀家である稲垣氏が親族である清林院と浄池院の菩提を弔うため心法寺に寄進したものです、心法寺の稲垣家墓所には幕末~大正期にかけての墓碑が三基あります。うち一基には、清林院・浄池院の名がみえます。この墓碑は破損が甚だしい状態ですが、右側面には次のような銘文が確認できます。 清 安政七庚申年三月廿九日 永 代 祠 堂 金 貳 拾 五 両 浄 萬延元庚申年八月十七日 寶 明治二十六年七月廿六日 この銘文から、安政7年(1860)3月29日没の「清林院」と、万延元年(1860)8月17日没の「浄池院」、二名の菩提を弔うために、万延2年(1861)2月に、稲垣家が心法寺に寄進したことがわかります。 所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺) 平成10年(1998)4月指定 この梵鐘は銘文にある通り延宝4年(1676)に鋳造されました。『新撰東京名所図会』によれば、心法寺開山の然翁上人が慶長2年(1597)の起立当時、三河国の秦宝寺から本尊・堂宇などとともに梵鐘を持ち込み、しばらく心法寺で使用したが、この梵鐘が破損した為、5世寂誉上人が改めて鋳造し直すこととし、延宝4年(1676)中、自坊において鋳造した、とされたいます。 増上寺 港区 延宝元年(1673) 三宝寺 練馬区 延宝3年(1675) 寛永寺 台東区 延宝9年(1681) 西迎寺 新宿区 貞享3年(1686) 宝憧院 大田区 延宝9年(1681) 長明寺 台東区 天和2年(1682) 天真寺 港区 貞享4年(1687) 東海寺 品川区 元禄5年(1692) などが挙げられます。 所在地 千代田区麹町4-1-1 (麹町ダイヤモンドビル横) 創建は元文年間(1736~1741)、遠藤三右衛門氏の建立に係ると伝えられる。旧称は、遠藤稲荷又は垣見稲荷、古くから遠藤家が、また明治以降は垣見家でお守りしてきたところからこの名がある。 明治22年(1889)、麹町銀行(後に三菱銀行)設立のため、垣見家よりお社を含む敷地が提供され、爾来銀行でお守りすることとなった。大正12年(1923)、震災後再建の際、町内安全、商売繁昌を祈って豊栄稲荷大明神と改称。昭和20年(1945)5月、戦災により焼失。昭和24年(1949)2月、有志の寄付により再建。昭和44年(1969)7月、三菱銀行店舗新築に伴い新社殿落成。昭和56年(1981)12月、有志の寄付により社殿等改修。平成16年(2004)3月、麹町ダイヤモンドビル新築に伴い新社殿等落成。 平成16年3月吉日 明薬は明治35年(1902)4月医薬分業確立を理念として学祖恩田重信先生により創立され明治40年(1907)7月現在地に明治薬学校校舎を建つ 爾来震災戦災のため麹町笹塚野沢田無と変遷するも今日の大明薬に発展せしは創学精神の継承による茲に発祥の地を明記する碑を建て母校の発展を祈り明薬史の道標となす 昭和51年(1976)6月吉日 明治薬科大学同窓会 明薬会 会長 太田哲郎
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