東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 千代田区指定有形民俗文化財 PR 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) この天水桶は、地上からの高さが1.4mほどになる一対のものです。八角形の基壇と四角形の台座は石製で、天水桶は鋳鉄製です。天水桶の口縁には「巴(ともえ)」が連続する文様が見られ、また台座は蓮弁(れんべん)を模した形にするなど、装飾も施されています。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 安政3年(1856)5月に静岡県富士郡加島村に誕生。職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人として名を知られていた。
所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)
千代田区指定有形文化財(歴史資料)
この顕彰碑は、神田神社本殿の北側、裏参道の脇にあり、正六角形の燈籠ををかたどった小塔です。高さが3m78cm余、正六角柱断面の六角形の一辺は40.7cmです。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 千代田区指定有形民俗文化財 この水盤は、左右の側面にある銘文によれば文化2年(1805)2月に伊勢屋治兵衛によって奉納されたことがわかります。さらに、背面の銘文によると、安政3年(1856)6月に神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈に住む45名の人々によって再建されたと考えられます。安政3(1856)年の人物について調べてみますと、「諸問屋名前帳」(国会図書館所蔵)からこれらの人々の中には川辺炭薪問屋仲間・炭薪仲買・人宿・六組飛脚問屋などといあった職業を持つ町人たちであることがわかります。また再建にあたり揮毫を書家の平林惇一が行っていますが、平林惇一は書家細井広澤の流れを汲み、江戸日本橋室町で代々書屋を営んでいた平林家に関わりがある人物と考えられます。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。 祭礼日 5月5日 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 当社御創建の年代は不詳でありますが、元和2年(1616)頃のもので、極めて古い神社であります。 祭礼日 3月午の日
所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) この神社は、住吉江戸平川の河口に近き一漁村の住民により祀られ、天正年間(1573~)徳川家康公江戸入府に当り城下町整備に際し鎌倉町成立と共にその守護神として勧請されました。寛政9年(1797)同町の崇敬の念篤き大工職平蔵に入り、社殿が造営され、爾来、浦安稲荷社として伝えられています。 祭礼日 3月午の日 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 御祭神 猿田彦大神(さるたひこのかみ) 祭礼日 11月5日 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)
かつての亀井町(現在の千代田区岩本町伊1丁目と中央区小伝馬町にまたがる地域)には、神田の青物市場や日本橋の魚市場などで用いられる籠や笊などを作製する籠職人・葛籠職人たちが多く居住しており、彼らによって籠祖講は結成されました。
境内には、嘉永3年(1850)から昭和36年(1961)に作製された9点の石造物(鳥居・水盤・記念碑・狛犬・常夜燈・玉垣・石標)があります。これらの石造物から、私たちは講の活動について知ることができます。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 神田明神の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴でありました。江戸小唄の中には神田際は随所に取り入れられています。この憧憬もあって、大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名 吉田金太郎)を、縁りあるこの地に顕彰し、昭和31年(1956)3月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当った)により小唄塚は建立された。
所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) この坂を明神男坂(みょうじんおとこざか)といいます。明神石坂(みょうじんいしざか)とも呼ばれます。『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消(まちびけし) 『い』 『よ』 『は』 『萬』 の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏(おおいちょう)は、安房上総辺(あわかずさあたり)から江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年1月と7月の26日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 千代田区指定有形民俗文化財 神田神社本殿前にある鉄製の天水桶は、その碑文から、神田あるいは新川辺りの江戸の酒屋が世話人となり、「摂州灘大石(せっしゅうなだおおいし)」と「筋違外(すじかいそと)」の酒屋により、弘化4年(1847)に奉納されたことがわかります。また他に「下り・地廻酒屋中」との碑文もあり、ここから株仲間との関わりが強く想起されます。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 千代田区指定有形文化財(歴史資料) この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。 平成3年(1991)9月 千代田区 国指定登録文化財(建造物) 所在地 千代田区神田錦町3-28 この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。明治5年(1872)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843~1927)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌明治6年(1873)に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本野球の始まり」といわれている。明治9年(1876)初夏い京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。 ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、明治4年(1871)9月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日、明治10年(1877)7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。 同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。 平成15年(2003)、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。 まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。 平成15年(2003)12月 (財)野球体育博物館 所在地 千代田区一ツ橋 九段南1丁目 この橋は、雉子(きじ)橋といいます。名称の由来について『御府内備考』に、「見聞集」云、 「関東御うち入の以後、から国の帝王より日本へ勅使わたり、数萬人の唐人江戸へ来たり、これらをもてなし給には、雉子にまさる好物なしとて、諸国より雉子を集め給ふ。この流のみなかみに鳥屋をつくり、雉子をかぎりなく入をきぬ。その雉子屋のほとりに橋一つありけり、それを雉子橋と名づけたりと」とかかれています。これは初め俗称であったのが橋名となってしまったようです。 外濠から平河濠につづいていて、江戸城本丸にも近いため警備も厳しかったといわれます。 ”雉子橋でけんもほろほろに叱られる” 警衛の番士の厳しさとのけんけんと鳴く声をかけた意といわれています。 旧雉子橋は、この橋より100m程西側に架けられていました。 平成4年(1992)3月 千代田区教育委員会
特別史跡 1963年5月30日指定 江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。 以来、家康、秀忠、家光の3代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。 明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年(1949)に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年(1969)からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。 この江戸城跡は、300年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和38年(1963)5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。 環境省皇居外苑管理事務所 所在地 千代田区九段南1-6 |
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永山
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