東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 日本医科大学付属第一病院は、大正13年(1924)に千代田区飯田橋の地に、日本医学専門学校飯田橋医院として開院し、昭和6年(1931)に当時の建築の粋を集め、近世スパニッシュ装飾を施して建てられた。 日本医科大学の付属の病院として、日本の医学教育及び医療の発展に大きく貢献してきた、平成9年(1997)9月30日閉院した。 PR 所在地 千代田区飯田橋3丁目 明治22年(1889)、ここ皇典講究所内に維新の志士、吉田松陰門下、時の司法大臣で所長である山田顕義により日本法律学校が創立されました。 これは日本大学の前身にあたります。 明治28年(1895)に三崎町に移りました。 所在地 千代田区飯田橋3・4丁目~新宿区 江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありませんでした。 明治初年(1868)に簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができる橋になりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました。 所在地 千代田区飯田橋1-5 榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久2年(1862)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しますが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟のための育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が4,50頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。 所在地 千代田区飯田橋1丁目 この奥、大神宮通り向って左側に明治18年(1885)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業(きしょうぎょう)のはじめて、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章(きしょう)の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業(きしょうぎょう)の方々の大多数は、この商会の流れを汲み、徽章業(きしょうぎょう)は飯田町の日本帝国徽章商会から生まれたといわれています。そして現在もこのあたりは徽章業(きしょうぎょう)に従事する人が沢山います。
所在地 千代田区九段南1-6-1先 安政3年(1856)幕府はここに藩書調所を設け、専ら海外の事情を調査すると共にその教育にあたらせた。 この調所はのち神田一ツ橋通りに移って洋書調所に、更に開成所と改め、明治2年(1869)大学南校と改称して東京大学の前身となった。 千代田区
所在地 千代田区九段北1-3 滝沢馬琴は寛政5年(1793)27歳の時から、文政7年(1824)58歳までこの元飯田町に住みました。ゆかりの井戸がこの中坂下に残っています。 自ら曲亭馬琴と号して南総里見八犬伝・椿説弓張月・俊寛僧都島物語等の多くの読本を残しました。 御祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) この社は元、板倉主計頭邸内に祭られていましたが、明治維新の後、武家屋敷が取り払われて町家と変り祠のみが残っていました。 廃れゆく稲荷を惜しんだ町内の有志が蓄財を出し合い保存と祭社の策を講じていたもので昭和36年(1961)、佐久間公園東北隅に遷座されました。 ラジオ体操は昭和3年(1928)11月、簡易保険局が国民の健康増進のために国民保険体操と名づけて制定したものである。これがひとたび放送されるやラジオ体操として親しまれ、全国各地にラジオ体操会の誕生をみるにいたった。 所在地 千代田区岩本町3-10先(区立岩本町馬の水飲み公園) この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を引く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場として、重要な役割を果たしてきました。 千代田区区役所 所在地 千代田区神田和泉町2-3先 ここに鎮座します神様は、お位では正一位の極位格式では本大斉祀式の最高『金網稲荷大神』と申される神様でおわします。 その神様の親神様は、伏見稲荷大神であらせられまして、五穀豊穰を守る農耕の神、衣食住の神と仰いで崇敬され、更に商売繁昌の神、産業護の神、道中を守護する神と信じられ今日的には生活守護の神、交通安全の神と崇め奉られているのであります。然りて、金網稲荷大神様が、この地和泉町に外まつりとして奉祀されるに至りました。 経緯は遠く379年の昔に遡及することになりますが、これを要約いたしますと、日本通運の先祖に当る飛脚問屋京屋弥兵衛という方が、徳川幕府から免許をうけて、浪花(大阪)、京(京都)、江戸(東京)間の運送事業を開始することになりましたもの、当時の世相は未だ物情騒然として治まらず、人様から頼まれた大切な信書や金銭それ貨物などを、安全正確に送り届けるにはどうすればよいか、ということについて苦慮されたものであります。 そのとき、京屋弥兵衛の脳裡をかすめ閃いたものは、伏見稲荷大神様が、中世のころ、熊野信仰がさかんなるにつれ、熊野参詣の道中を守護された道中安全の神様でであらせられること想起し、これは伏見の親神様にお縋がりし、ご助力を祈願するに如かずとし、京屋は常日頃から伏見稲荷大社に参拝、同神様を信仰していたものの、これでは信心が足りないとして、同神社から大神様の”みたま”を勧請し、日夜自店にあって修行されたのであります。 ところが或る夜の夢枕に王冠白衣のご神霊が立ち給い「汝の篤信のためで、汝に黄金の綱を授けるものなり、ゆめゆめ疑ごうことなかれ」とのご詫宣がありましたので、恐懼再拝、感激極まりなく、早速自店で奉祀している神様に「金網」の名前をつけ、これが金網稲荷大神と称えるようになった由来であり、前にも増して信仰に励んだのであります。 爾来、金網様のお導きにより、京屋の飛脚は、道中における山賊や護摩の灰からの人災は皆無となりましたが、これは”厄除け”交通安全につながり、従って無事故は信用を倍加し、顧客が増えれば”商売繁昌”につながるとして店栄えるに栄え、なおかつ誠心誠意、人間性的な事業経営は信仰に繋がるものとして、これを「業即信仰」と称え、これを金言として子孫に伝え、子孫またこれを実践躬行しましたので、京屋飛脚問屋は、明治4年(1871)陸運元会社に吸収統合されるまでの271年もの長い間、連綿と続いた老舗となったのであります。 続いて統合の結果、金網稲荷神社の祭主は時代の変遷に伴い、京屋から陸運元会社、内國通運、國際通運、日本通運と移り変わりましたが、その理由は定かではないが、推測するに、大正初期の内國通運神田支店(現在の秋葉原支店)は、聖なるところに畄まれるという観点からと、地域社会一般の人々が参拝するに過した地点を、ということで、現在の場所を選ばれたと思うのであります。 その結果は、毎年の初午祭には盛大な祭典が行われ、地元町家一般の参拝は日に日に激増し、神田一帯の信仰を集めるようになりましたが、これもご利益を授け給う灼かな神様であることが理解されたからであります。その灼かさにあやかりたく、日本通運では新造船に「金網丸」と命名し、航海の安全を祈ったところ、この金網丸に限り就航以来一度の海難事故はなく、全く以って奇跡といわれているのであります。 また、外まつりとなられた金網稲荷大神様は地域住民社会一般の方々に対しましても、人によって差別をつけられることなく祈願によってご利益を授け下さるものでありまして、あの大正12年(1923)9月1日の大震災のとき、猛火は殆んど神田一面をなめつくし、今にも和泉町に延焼しようとしたその刹那、俄かに神田川沿いの屋上に霊狐が現れ、頻りに炎上する火炎に立向い、それを追拂う所作をされましたが、その神々しいお姿を、自分はこの目でまざまざと見上げたものだとは、当時穀商の鈴木四郎氏という方の話として、今に残っている逸話でありますが、これは神様は平等にご利益を垂れ給う好い一例であるものであります。 このように、金網稲荷大神様にまつわる話は、枚挙に遑ありませんが、要するにこの神様は、ご利益を祈願して成就せざることなしとの灼かな神様であらせられますので、この神様を礼拝され広大なご神恩を鑚仰されますこと祈念する次第でであります。 恐惶謹言 昭和55年(1980)2月3日 初午に当り 日通金網稲荷奉賛会 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 荷田東丸は、京都伏見稲荷社家に生る。通称羽倉斎本名信盛なり。
所在地 千代田区丸の内 鍛冶橋のさきには江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門がありました。門の名前は『江戸紀聞』に「鍛冶町へ出る御門なればかくいへり」とあり、交差点の向こう側にあった鍛冶町に由来していると考えられます。門には鉄砲十挺、弓五張、長柄十筋、持筒二挺、持弓一組が備えられ、柳之間詰めの一万石余の外様大名が一年ずつ警備を担当しました。門内には南北の町奉行所が移転を繰り返し、一時期は中町奉行所も設けられました。門前には、幕府の御用絵師として有名な狩野探幽が屋敷を拝領し、以来代々住んだため、この家は鍛冶橋狩野家と称されました。 明治維新後に門が撤廃された後も、外堀には引き続き鍛冶橋が架けられていましたが、昭和20年代に、外堀が戦災の瓦礫によって埋め立てられたため、鍛冶橋はその役割を終えました。 平成15年(2003)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区大手町1-4 一橋徳川家は、寛保元年(1741)徳川8代将軍吉宗の第4子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。 一橋家・田安家・清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。 当家は、2世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が11代将軍となり、水戸家より入った一橋9世が徳川最後の15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。 敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んだ。
所在地 千代田区外神田2-16-2 社殿は登録有形文化財
社伝によると天平2年(730)、武蔵国豊島郡柴崎村の浜辺(現 平将門首塚 千代田区大手町1-2)創建されました。延慶2年(1309)、時宗二祖真教上人は東国の英雄で庶民たちに仰がれた平将門公の霊を当社に合祀し、太田道灌・北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
一の宮 大己貴命(おおなむちのみこと)(別名 大国主命)
二の宮 少彦名命(すくなひこなのみこと)
三の宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと)
Edo Sochinju Kanda Myojin 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 石造では日本一の大きさを誇る。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 神田明神の二の宮・少彦名命(すくなひこなのみこと)は「えびす様」として親しまれ、篤い崇敬をお受けになられています。
所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 昭和51年(1976)に建立。総檜・入母屋造。関東大震災(1923)で焼失して以来約50年ぶり(昭和天皇御即位50年の記念)の再建。平成10年(1998)に『平成の御造替事業』により鮮やかに塗替えられました。
所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守(ちんじゅ)、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 千代田区指定有形民俗文化財 本石獅子は、千代田区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。 『武江年表』には「文久2年(1862)11月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。 神社境内の獅子山に据えられていたが、大正12年(1923)の関東大震災により獅子山自体は崩壊した。その際、子獅子は、紛失したものの、親獅子二頭は、保存され、再建された獅子山に据えられた。 平成3年(1991)12月 千代田区教育委員会
所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 三天王 一の宮 三天王祭・一の宮江戸神社の祭 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) |
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