東京都千代田区の歴史
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明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年(1880)に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に日比谷大神宮と称されていました。関東大震災後(1923)の昭和3年(1991)に現在地に移ってからは飯田橋大神宮と呼ばれ、戦後は社名を東京大神宮と改め今日に至っております。 「東京のお伊勢さま」と称えられ親しまれているのは伊勢両宮(内宮 外宮)のご祭神である天照皇大神(日本国民全ての祖神)と豊受大神(農業 諸産業の守護神)のご分霊を奉斎していることによります。 また、日本で最初の神前結婚式を執り行ったことで有名な当社では、現在も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る「造化の三神」が併せ祀られていることから近年縁結びに御利益のある神社としても知られ良縁を願う人々のご参拝も年々多くなっています。
御祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 豊受大神(とようけのおおかみ) < 造化の三神 > ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) ・高御産巣日神(たかみむすびのかみ) ・神産巣日神(かみむすびのかみ)
倭此賣命(天照皇大神の御杖代 第十一代垂仁天皇皇女)
御鎮座 明治13年(1880)4月17日 PR 明治初年日比谷大神宮御鎮座に際しその境内に奉斎され昭和3年(1928)10月にこの地に奉遷今日に至っております。 衣食住と商売繁昌の守護神「稲荷大神(いなりのおおかみ)」と土地の守護神「大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)」を祀っています。 主な祭典として毎年2月の午の日に初午祭が8月15日には夏の大祭が斎行されます。 また不出世の名優と謳われた9代目市川団十郎丈が篤い信仰を寄せていたことから芸能の神様としても崇敬されております。 所在地 千代田区富士見1 この坂は二合半坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。 『再校江戸砂子』という史料には、日光山が半分見えるためと書かれています。なぜ「日光山が半分見える」と「二合半」になるのでしょう。このことについて、『新撰東京名所図会』という史料での考えを紹介しましょう。 富士山は麓から頂上までを十分割して一合・二合・・・と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。 この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。 昭和50年(1975)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区富士見2 九段北3 この坂を富士見坂といいます。同名の坂は各地にあり、千代田区にも3ヶ所をかぞえます。もともと富士見町という町名は富士山がよく見える台地につくられた町ということでしょう。むかしはこの坂から富士山の美しい姿が見えたことによりその名がつけられたということです。坂の下で一口坂と合流します。 昭和50年(1975)3月 千代田区 所在地 千代田区富士見2-9 江戸城外堀跡 牛込見附(牛込御門)跡 正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、ふたつの門を直角に配置した「枡形門」という型式をとっています。 この牛込見附は、外堀が完成した寛永13年(1636)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。 江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。 その後、明治35年(1902)に石垣の大部分が撤去されましたが、現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。 かっての牛込見附の跡をイメージし、舗装の一部に取り入れています。 千代田区 牛込見附「旧江戸城写真帖」(現在のセントラルプラザから望む) 所蔵:東京国立博物館 所在地 千代田区富士見2-16-23 (東京逓信病院) 日本赤十字社は明治10年(1877)西南戦争の際、佐野常民・大給恒らが傷病者救護活動等のため設立した博愛社を前身としたもので、その本拠はこの地桜井忠興邸においた。 昭和63年(1988)3月 千代田区教育委員会
所在地 千代田区富士見2・飯田橋4 ~ 新宿区 この橋は、「牛込橋」といいます。 『御府内備考』によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込口」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と「牛込方」(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。 最初の橋は、寛永13年(1636)に外堀が開かれたときに阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られましたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられています。 現在の橋は、平成8年(1996)3月に完成したもので、長さ46メートル、幅15メートルの鋼橋です。 平成8年(1996)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区富士見2-17-1 (法政大学) 「ボアソナード・タワー」名称の由来 ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ドュ・フォンタラビーは、1825年(文政8年)6月7日、フランス・ヴァンセンヌ市に生まれました。パリ大学を卒業し、博士号を取得した後、グルノーブル大、パリ大の教授を歴任、1873年(明治6年)、政府の法律顧問として我が国に招かれ、太政官、司法省、外務省などの顧問として、20年間にわたり刑法典、治罪法典、民法典などの法典編纂や、司法省法学校の教授、政府の外交政策への助言などに尽力しました。 1883年(明治16年)9月、本学の前身である東京法学校(後に和仏法律学校と改称)の教頭に就任した博士は、以後最終帰国まで10年間にわたち、無報酬で門弟の教育に情熱を注ぎ、本学の基礎固めに精魂を傾けました。東京法学校は校長を置かず、主幹薩埵正邦が経営していたので、実質的に本学は「ボアソナードの法学校」であったといわれています。 ボアソナード博士により培われたフランス自然法的な近代法の基礎理念は、本学の「自由と進歩」の学風をつくりあげる基盤となりました。1910年(明治43年)6月27日、南フランス・アンチーヴで没。 2000年(平成12年)4月に竣工した「ボアソナード・タワー」は、学内で広く名称を公募した結果、本学草創期に大きな功績を残されたボアソナード博士にちなんで命名されました。 所在地 千代田区富士見2-17-1 (法政大学) 法政大学キャンパス中央広場 この広場は、第一校舎の跡地につくられました。市ヶ谷キャンパスの中心に位置氏、ステージ上には14個のカリヨンベルが設置され、季節ごとに様々なメロディを奏でます。学生の憩いの場所、様々な活動の舞台の中心となるように願いを込めて「キャンパス中央広場」と命名しました。 舗装面にある白いタイルで表された線は、第一校舎があった場所を示しています。第一校舎は1927年に竣工しました。当時の司法省技師であった山下啓次郎博士(1867~1931)の設計による建物で、戦禍にも耐え、図書館や講堂、事務所として長く使用されてきましたが、2007年、市ヶ谷キャンパス整備計画により、80年の長い役目を終えました。また、この碑の周囲に設置された濃灰色の石は第一校舎の階段に使われていた手摺りを移築したもので、往時を偲ばせますl。 2007年10月 法政大学 |
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