東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区内神田3-10-1 佐竹稲荷神社 PR 所在地 千代田区内神田1・神田錦町1・大手町1 所在地 千代田区内神田2-1 江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。 神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道おなりみち(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。 明治30年(1897)頃の神田橋付近(レオ マカラズヤ蔵) 所在地 千代田区内神田2-6 出世不動尊の由来書 出世不動尊は、智証大師の御作にして、東潮院不動尊と申しあげ、江戸城内一ツ橋徳川水戸家の表鬼門除けとして祭祀せられましたが、明治以後は神田松下町の有志によって守護せられ、第二次世界大戦後は神田鎌倉町の要請を受け、出世不動通りが中心となってご守護いたすことになりました。 都内でも屈指の由緒ある不動尊として知られ、一般庶民の信仰厚く、其の霊験は誠にあらたかで父子数代に及ぶ篤信家有り、27日のお縁日、歳末の羽子板市など往時の盛況は都内でも有名で古老の語り草となって居ります。 今次大戦までは、院内に川越喜多院(天海僧正開基)より野川良源師が来院居住され、供奉に専念教化されて居られました。 昭和20年(1945)2月の戦災により本堂は焼失いたしましたが、御本尊様は、野川氏が身を持って之れを御守護いたし、生国九州天草に難を逃れて、幸い事無きを得ました。 爾来、川越喜多院と関係の深い植えの寛永寺水上大僧正を煩わし、節分豆撒式、毎月27日のお縁日に信徒各位のお冥福、家内安全、商売繁盛の祈願を行っております。 現在の御本堂は昭和63年(1988)7月に完成致し、落慶法要を機に「出世不動尊奉賛会」を結成し、お守りいたしております。合掌 平成6年(1994)7月 出世不動尊奉賛会 所在地 千代田区内神田2-1-14 「江戸名勝志」には「鎌倉がし、神田橋より常盤橋の辺の外の御堀はたを云」とあります。また「続江戸砂子」には「鎌倉町、かまくらがしたと云、御堀ばた米屋多し」といっています。『東京案内』には「鎌倉町寛永の頃(1624~1643)は士地にして、城地に沿う所を鎌倉河岸と称せり。天和2年(1682)火災後、始めて鎌倉町と称す。寛政11年(1799)鎌倉横町南側代地、新革屋町飛地を合す」とあります。なお、鎌倉町は現在の内神田1丁目6番地2丁目2・3番地の区域にあたります。 大正18年(1590)家康入国頃の初期この河岸は、魚、青物のような生産食品をはじめ材木、茅などの物資の集まる所でありました。江戸城築城の時鎌倉から石材を荷揚げしたのでこの名がついたともいわれます。江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、木材、竹、薪などが多く荷揚げされました。昭和になっても建築材料の荷揚げが行われていました。また江戸時代この河岸の豊島屋十右衛門という酒屋で売出す雛まつりの白酒は有名でした。入る客、出る客をはかって売出したのですが、中にはあまりの人で絶倒する客があったといいます。この店も戦災までこの河岸にありましたが今も神田に残っています。 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会 |
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永山
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